[ 参考資料 ] 2015/09/04
ほうきは、古くは実用的なお掃除道具ということ以上に、神聖なものとして考えられており、箒神(ははきがみ)という産神(うぐがみ、出産に関係のある神様)が宿ると言われていました。日本最古の書物『古事記(712年 奈良時代)』には、「玉箒(たまほうき)」や「帚持(ははきもち)」という言葉で表現されており、実用的な道具としてではなく、祭祀用の道具として登場しています。
実用的な道具として、ほうきに近い形で歴史に登場したのは平安時代で、宮中で年末に一年の煤を払うすす払いの道具として使われていますが、鎌倉時代になると、禅宗ともつながり、修行の一環として掃き掃除に使われるほうきが紹介されています。室町時代になると、ほうき売りという職業が生まれており、広くほうきが使われるようになったことがうかがえます。
「七十一番職人歌合【1500年(明応9年)末ごろ】」の「二十一番」。左がほうき売り。
※写真は国立国会図書館ウェブサイトから転載しています。
文献に紹介されているほうきの形状から竹ほうきだけは推察することができますが、当時のほうきのほとんどがどんな繊維から作られていたか不明で、ほうき売りという職業があったとはいえ、一般には手近な素材で各自が作っていたのではないかと推測されます(江戸中後期以降になって初めて、どのような素材でほうきが作られていたかを示す資料が見つかっています)。
ただ、ここで押さえておきたいのは、日本においては「お掃除」を単にきれいにする行為とみなすのではなく、神聖な行為もしくは精神面を高める行為として位置づけ、その中心にほうきがあったという点です。現在にもつながる考え方が当時から育まれていたことに驚きを隠せません。
時代が下り、江戸時代になると棕櫚ほうき(しゅろほうき)と竹ほうきがよく使われていたようです。棕櫚職人が江戸・大阪に現れ、ほうきを編み上げていました。棕櫚ほうきが普及した背景には板間が広まったことがあります(毛先が柔らかく、しなやかな棕櫚は板間の掃除に適していました)。
さらに時代が下り、それまで武家階級にしか普及していなかった畳が中産(庶民)階級にも広がった頃(おそらく1800年以降)、座敷ほうきが江戸で生まれました。畳を掃くには目に食い込む穂先が適しており、その条件を満たす座敷ほうきが考案されたようです。座敷ほうきのことを東ほうき(あづまほうき)とも言うように、関東を中心に急速に広がり、相対的な視点で言うと、東(江戸)は座敷ほうき、西(大坂)は棕櫚ほうきがそれぞれ好まれていました。
これはあくまでも推測ですが、棕櫚ほうきの起源は中国にあると思われます。中国から棕櫚の使い方(ほうき含め)が日本に伝わり(おそらくは遣唐使の時代)、日本でその編み方等が磨き上げられたものと思われます。中国では現在も棕櫚ほうきが多く使われ、その形状は日本に昔からある棕櫚ほうきに似ています。
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