[ ブログ ] 2015/11/06
歌川広重が東海道五十三次を描いたのは1833年、江戸時代の天保4年と言われています。わずか30数年後には明治維新を迎えることになるわけですが、江戸時代の、しかもここ浜松のほうきを再現する・・聞いただけでもなかなか面白そうです。
前回、1841年からの歴史を持つ鹿沼箒に焦点を当てました。今回は座敷箒の起源とも言われる江戸箒について考察したいと思います。まずはほうき草の生い立ちから・・・果たして広重が見た座敷箒が見つかるのでしょうか?
K | 「ほうき草(ホウキモロコシ)の起源は江戸なんですか?」 |
Y | 「うん。朝鮮通信使(∗1)が持ち込んで、それを江戸界隈で作ったのが始まりと言われている」 |
K | 「でも時代劇を見ると、江戸って都会のイメージで、そもそも田畑ってあったんですか?」 |
Y | 「それはテレビの見過ぎだよ。テレビはあくまでも架空の設定だから。当時の江戸は、割とこじんまりとしていたという説もあるんだ。その中に人々が密集して 暮らしていたって。その説によると、江戸の街をちょっと外れると田畑がかなり広がっていたそうだよ。古い記録によると、ほうき草が栽培されていたのが今の 練馬あたりだから、それは十分にあり得ると思う」 |
K | 「そうなんですね。ところでほうき草を使った座敷箒はいつ頃から作られていたんですか?」 |
Y | 「畳が広がり始めたのが江戸中期だから、その後に座敷箒ができたと思うけど、いつかは残念ながらはっきりわからないんだ。生活環境の変化によってお掃除道具も変わるからね」 |
座敷箒に使われるほうき草はホウキモロコシという品種で、朝鮮通信使によって持ち込まれたとする説が有力で、ホウキモロコシの栽培は江戸界隈の練馬付近で始まったと言われています。
座敷箒に使われるホウキモロコシ
座敷箒が台頭した背景には畳の普及があり、武家の上流階級のものであった畳が、中流階級の町人に普及したことで住環境が変化し、それに伴い、表面をなでるような棕櫚ほうきに代わり、畳の目に食い込むホウキモロコシが求められるようになったと思われます。
畳が普及し始めたのが最大都市の江戸だったことを考えると、座敷箒が江戸で考案されたと考えるのは自然な流れと思われます。
また、1830年には江戸でほうき草の座敷箒が作られていて、一世を風靡していたことが分かっています。
Y | 「それに・・ほうき草が普及した背景には、供給面の問題もあると思う」 |
Y | 「ほうき草の座敷箒ができるまでは棕櫚箒が普及していたんだけど、その棕櫚は主には建築用に使われていたんだ。これは推測だけど、たとえば大火事の後なんかは棕櫚の供給が需要に対して間に合わなくなったりしたと思う。当時、箒職人という職業が既にあったから、職人にとってみれば棕櫚価格の変動は大変だしね。それに・・江戸周辺で取れた棕櫚の質があまり良くなかったという話もある。棕櫚に代わるものが欲しかったんじゃないかな」 |
江戸時代から戦後しばらく、日本でもほうき草の栽培が積極的に行われていました。ほうき草の栽培は、稲作農業の傍らで行われ、換金作物としての位置付けです。今よりも品種改良が進んでいない当時は、米の出来不出来に生活が左右されることを恐れていたので、農家にとって換金できる作物を栽培することはまさに命綱でした。
その点、ほうき草は 1、収穫が早く、 2、農作物の傍らででき(育てること自体は難しくない)、 3、主となる農作物を収穫した後に、加工することができる点で好まれた・・つまり、主の農作物を育てる際には手間をかける必要がなく、忙しくないときに加工ができるという点が好まれたと思われます。
K | 「そうっか。たくさんの農家さんがほうき草を換金作物として作れば、量も安定しますもんね」 |
Y | 「そうなんだ。それに掃除機がない昔だから、ほうき自体の需要も相当多かったと思うしね。一時は関東一円で相当の量を作っていたみたいだよ」 |
K | 「ところで・・・、当時、江戸で流通していた箒ってどんな箒なんですか?」 |
Y | 「おっ、核心に触れてきたね。でも正直なところ、はっきりとはわかっていない。箒ってあまりにも生活に身近過ぎて、わざわざ記録に残していないんだ。Kさんも普段使っている箒のことを日記か何かにつけている?」 |
K | 「たしかに・・・。でもそれじゃぁ江戸箒について考察も何もないじゃないですか?」 |
Y | 「そう。結局は分かっている点と点をつなげて推測するしかないんだけどね」 |
K | 「分かりました!こう見えても推理は得意なんですよ。また、テレビの見過ぎって言われるかもしれませんが、じっちゃんの名にかけて推理しちゃいます」 |
Y | 「おじいさん、何やってたの?」 |
K | 「公務員です」 |
Y | 「・・・・・まぁ頑張って」 |
次回、いよいよ江戸箒の特長について迫ります。
(∗1) 朝鮮通信使:両国の平和外交の一つで、秀吉の朝鮮出兵に伴い悪化した関係回復を目的として始まったもの。